昭和43年7月19日 朝の御理解  ★

 18年から、82節です、今日初めて頂きます。

御理解第82節「大蔵省は人間の口をみたようなもので、その口に税金が納まらぬ時は、四分板張った戸一枚で寝てはおられぬ。どこの太郎やら次郎やらわからぬようになろうぞ。」



 どこも税金構成で、(おおいきといき?)と言うか、いかにしてごまかすかと。まあきつねのたぬきの騙し合いのような状態がこれは現状だと思うんですよね。それも私は悪くはないと思うんです。何故ってその果たして私共が一生懸命働いて、そしてそれを納めた税金が本当にお国のために、本当に人が助かることのために、言うなら神様に喜んで頂くことのためにそれが(ぎょうち?)されるなら、それもまた大変、有り難いことなんですよね、税金を納めるということは。
 ところがその誰かの懐を肥やすことのために、ね、それが人が助かることとは反対のことのために(ぎょうち?)されておるといったようなものを見たり聞いたりいたしますと、やはりそこは人間ですから、そのために税金を納めるのは嫌ですよね。けれどもやはり、まあこれはなら日本なら日本の国家というものがあり、国民としての、まあひとつの義務でございますから、国家が成り立っていくことのためにですね、まあここはあんまりだから理屈を言わずに今日の御理解を頂いて頂きたいと思う、ね。
 ですから、ある人はできるだけ、ね、ある教会のご信者さんが税金が高いから少し負けてもらうようにお願いして下さいと言ったわけですよ。先生が仰っとる、ね、そげなけちなこと言うなと。いくら税金がきとるか知れんけれども、その倍額でも納めさして頂けるほどのおかげを受けたらどうかと、ね。と言うような言い方をなさったと言うのですよ、ね。ですから、税金が少なかりゃええが少なかりゃええがというのじゃいかん。
 けれどもですね、実際問題としてです、これくらいだけしか納められないのに、余分にきておる、もう納めたらもう本当に店がつぶれるといったような場合もありますもんね。そこで結局、まあごまかせるところはごまかせなといったようなことにまで、まあなりかねないわけでございますね。玉水のまあ湯川先生といやあ、当時、日本一を( ? )した先生で、まあたいへんな教会でございますけれどもね。私共、ご本部参拝なんかいたしますとね、帰りにはお土産を随分買って来ますよ、10月の月次祭にもなると。もう松茸の、松茸の名産地ですからね、もうかごもこうやって下げてくる人がある。
 今度の8月のお参りなんかは、もうあちらの岡山名産の桃をね、こんな大きなかごで下げてくる人がある、お土産で、ね。そして、神様にはちょこっとばっかり(笑)。そういうなのを見てから、あるこちらの先生が言われとる、ね。あんた達はご本部参拝さしてもらう時お初穂はいくらお供えしたかと、ね。千円のお初穂がでけとるならば、千円、お土産は千円以下ぞと。500円しかでけとらんなら500円以上のお土産は買うちゃならん。そういう教導をなさった、ね。
 これなんかもう、本当に(?)。私共はまあだ、ご本部参拝させて頂いても何十年になりますが、お土産を買うてきたことがありません、私は、ね。それは思う存分のお供えができないからってそんなこっちゃあない。もう買わないものと決めている、ね。ところが湯川先生になるとそれは違う。やはり、商売人の町であり、あれだけの御比礼を頂かれた所ですから、信者に言われる、ね。
 いわゆる、毎月やっぱ千人からの人が参るわけですよね、ご本部のあの小さい町にお参りをされる、ね。沢山、お土産を買うほど喜ばれたそうですね、湯川先生が、ね。玉水の団体がご本部にお参りをしてきたらね、まああの小さい金光の町がね、賑わうくらいに、ね、はあ、明日は玉水教会の参拝ぞと言うて金光の町の者がですね、手薬煉ひいて待っておるくらいにです、ぐらいな買い物をして帰れと仰った。
 だから私はそれはどちらがどうともいえないと思うですね。問題は真似じゃない、やっぱりその人のやはり、内容によることだと。ということの裏にはね、やはりお土産を千円方も買うていきよる。本当にお初穂はたった500円しかしとらん。こんなこっちゃ相すまんというようなものが自ずと出てくるところを私は、ね、本気で出そうという気になりゃあ、お土産ならこげん買うじゃないかというところを生きた教導をなさったんだと思いますね。
 なら私の生き方も、これは誰でん真似できませんもんね、ご本部まで行ってからお土産買うて来んちゅうことはできん、待っとる、家に。これはいくら待っとっても、だからお父さんがご本部参拝されてもお土産はないもんだともう子供達も承知してる、ね。それは、買おうと思やあね、まあそれこそなんぼでも買えますけども、そのへんはまあ理屈を言わずに、その人の信心信心で頂いていかなきゃならん。またその時の信心の程度に応じて頂いていかなきゃならないことなんです、ね。

 私は今日の御理解を、ここの御理解を始めて頂きましたがね、これはただ、税金のことだけじゃない。大蔵省は人間の口を見たようなもので、皆がおかげを頂かなければならない。言うならばお広前のこの御結界というところは、教会の口を見たようなものでということも言えると私は思うのです。そうでしょうが。ここでまかなっていきよる、ね。教会の運営というものはここで成り立っているわけ。
 ですから国家に予算というものがあって、これこれだけの予算があるから、これこれだけの税金を国民から徴収しなければならないというようなことになってくるようにです、ね。合楽教会なら合楽教会。椛目の時代は、まああの程度のお広前であったから、ね、まあ例えて言うならば千円なら千円で、毎日がたっていった。けれども、お広前、この合楽の方へなってきたらやっぱり膨張してきた。やはり1万円なしにはたっていけんということになってきた、例えば、ね。
 ですからその一万円というものは、ここの信者がやはり受け持たなければならない。そこで、その一万円の中のです、いくらお互いが負担するかということなんです。これはお国のそれとは違ってね、割り当てるわけにはいかん、ね。皆の真心が結集したものでなからにゃいかん。ところが、そこが国家とまあお広前との違いはどこにあるかと言うとですね、これは誰が何と言わんでもちゃあんと神様が立てられる予算というものはですね、例えて言うならばですね、椛目時代に電気料が六千円も椛目は毎月納めなさらんなんげなっちゅうてから、近所の人がたまがりよった。
 ところがどうですか、こちらへ参りましたら、やはりその(?)10倍ですここの。5万円近くの電気料払います。こらもう私がずっと、付けたで後ろで片っ方ずつ消して回るようにしておってもそれだけかかる、ね。燃料なんかでもそうです。やっぱり10倍に膨張して、ところがね、もう(ぞうよう?)がいるごとなった時には本当困るっちゅうことじゃなくてから、もうそれこそかえって豊かに、結構にそれがたっていきよるということは素晴らしいことでしょうが。
 昨日、お金を百万円ばっかり払わんならんじゃった、ね。昨日のお初穂整理してから、経理の茂さんが参りましたから、したらちょうどそれだけあった。必要なお金が必要なだけ払える。神様の予算の中にですね、ちゃんとその組んであるそれが、ね、言うならば一部一厘が間違いなく集まり、ね。大蔵省が人間の口みたいなようなものであるようにです、ね。お広前の御結界というところは、まあ言うならば教会運営のための、ここはお口のようなものなんだ。そこで、お互いがここでひとつ、本気で考えなければならないこと、ね。
 例えて言うならば、今、私が、椛目で言うなら千円、ここの場合は一万円。これは例えですよ、ね。ですからその一万円なしに(アポ?)が立ち行かない中にです、私がどれだけそこの中に入っておれておるかということなんだ、ね。これ割り当てるならば、100人の信者がおって、100円ずつお供えさして頂いたらいいのだけども、千人の人もありゃあ、千円の人もありゃあ、10円の人もある、ね。
 だからね、問題は自分がそれだけの、ね、神様が予算を立てておいでられる。さあ、今日、どこどこにいくらぐらいの支払いがある。というような、予算が立っておるから、私が総代さんにいついつはいくらいくら払わんなんですよっち。私はまあだ、これだけのことばできたばってん、総代に、これから先でん相談したことないです。皆が心配している、皆が話し合っている、ね。
 また、私それでなからなければおかげ頂かれんと思うから。総代さんどうしようか、これいついつはいくら払わにゃんが、どげんかならんじゃろうかと。もうそれこそ、口が腐っても言おうとも思いませんが、またそれを言うようなことでおかげになると思われません。あるならあるほど、思うなら思うほど神様へ持って行く以外にはないのです、ね。私自身がそういうおかげを頂いておるから、さあ明日は、先生、手形でどれだけございます、ああですからお願いしますと言うて来た時に、よしと私がここでお取次ができるのですよ、私自身がおかげを頂いておるその確信があるから、ね。
 お願いをしたばってん、おかげ頂くじゃろうかというごとある気持ちじゃったらおかげ頂きもしません。先生がお取次して下さったんだから、おかげ頂く。確信もって私はかからなければ、もちろんおかげ頂けるもんじゃない、ね。ここはですね、大蔵省がお国のお口であるようにと教祖が仰っておられるように、教会の御結界というところは、お広前、御結界の口みたようなものなんだ。
 そこでなら、一万円なら一万円という、ね、経費がかかりよるが、その一万円の中に私がどれだけ入れておるかということなんです、ね。毎日、千円ずつお供えする人がある、ね。その人がある事情でお供えができなくなったり、お参りができなかったりするといたしましょうか。そうすっと、ころっとその人の千円のお供えが、中から千円足らんはずなからいかんでしょうが、ね。
 ところがんなら、夕方なら夕方、ふたを開けてみると、どういうことかというと、きちっと合うとる。誰かがどっからから千円持ってきておる。してみるとここで分からなければならないことなんです。これはもう自分のお株というものはもうとても小さくどんされないことが分かるじゃないですか、ね。自分の千円の株を持っとる、100円の株を持っとる、ね。
 この場だけは人には譲られない。そういうことになるでしょう。それがどういうことかになると、千円の力であり、千円、100円の力と言うことになるのです、これからが。いいですか、最後んところに「どこの次郎やら太郎やら分からんようになる」とこう、ね。沢山の信者はおるけれども、あの人が合楽の○○さんげなと、言われるくらいな信者にお互い、銘々がお取立て頂かにゃいけんです。
 あの人がおるから合楽がたっていきよるげなと、まあ人が評判するくらいにはおかげ頂かにゃいかんです。そういう願いを持たなければ。お供えはできるだけ高いとばっかりしといてから、おかげだけは大きく頂こうと。もうこげなげさくか信心はないですよね、ね。
 私は今日は皆さんにね、お供えの宣伝、お供え、そうじゃないです。皆さんがそういう、例えばここに一万円なら一万円という、なら経費がかかるならその中にです、お互いがね、どれだけの御用ができておるかという意味ではなくて、どれだけの力がそこに自分、あるかということなんです。それがあなた方のこれからの力になるんだと。
 例えばお供え、月次祭なら月次祭のお供えを見たらいいと、ね。もうこのお三方は自分のだと決めちゃるでしょうが、ね。例えばサイダーならサイダーと、ね。サイダーはもう私、私がお供えさして頂くものと決めてある。(あそこへ?)、岡崎さんが今、参って来ております、岡崎さんが月次祭の度に必ずね、鯉のお供えをするんですよ。ところがその、この前の月次祭にね、鯉の、もうその、昨日私、話したんですよ。
 先生、それはあんたうかつして忘れとりましたちゅうて。結構なことじゃんの、お月次祭をするぜんなんてん。それでおかげ頂いとるもんじゃけん、ほんなこと結構なことである。と言うて、まあ話したことですけれどもね、んなら岡崎さんが忘れとりゃですね、他からちゃんと鯉がきてるということですよ。いかにここに定まった三方があるかということが分かるでしょうが。
 だから、あれがなら岡崎さんがお供えせんごとなったら、どこかにとられるわけですよ、誰かに、ね。このお水の三方は私の三方だと。私のこれが分域だと、ね。ここの場合それがはっきりしているでしょう。そこで、皆さん、税金を納めるなら千円よりも一万円、一万よりも10万、百万とです、沢山の税金が納められるようなおかげを受けなければいけない。
 これがお国の場合はです、それがどういうことに(ぎょうじ?)されておるか分からんと思うとです、やはり、ごまかしもしようごとなりますけれども、ね。ここの場合は誰がごまかしますか、ね。神様がぎょうじされる、ね。神様がちゃんとそれをにぎってござる。ですからその中に私がどれだけ入り込めておるかということがです、これからの皆さんの力になることなんです、ね。
 けれども、こういう例もありますよね、これは私の修行中の時分に、ある婦人が参って来て、それはどこどこ教会の○○さんと言われるほどの、やはり女ですけれども、まあ(じょようふ?)と言われた人です。料亭を経営して。ところがもう、二進も三進もいかんようになった。教会にお参りをさして頂いても、初めの間はどんどん御用ができよる時にはもうそれこそ下にも置かれんように大事にされておったけれども、この頃、自分がお供えができんごつなったら、もうとにかく冷遇される。
 まあそらその人の非があるかもしれません、ね。何とかもう一遍立ち直りたいとこう言うのである。私はそのことをお取次さして頂いて、★そしたらね、あの草履です、ね。草履をね、雨の降る日に履いているわけですよ。それでこう竹をこう挿してからね、草履の鼻緒んところにこう竹だけこうやってぶら下げちゃあある。雫がぼたぼた落ちよるっちゅう。ははあ、これは○○さん、あなたがね、使うことのできん時に使うとるよって私、ね。
 この草履をね、お天気の良い日に使やよかけれども雨の降る日に使うとる。だから一時ばっかり吊り下げとかにゃ履かれん、これが乾くまでは。今乾きよるところじゃからちっとはぼたぼた落ちよる、雫の落ちるごとあるけれどもね、ここは辛抱しなきゃ仕様がないというわけなんです、ね。使うことない時に使うてとどういうことじゃろうかとこういうわけなんですよ、ね。
 それでまあ、いろいろ御理解頂きよるうちに分からせて頂いたことはですね、戦時中、この金光号というような飛行機の献納があったわけ。そこをその教会のですね、その女の信者さんが一人でね、飛行機を一台献納したわけですよ、ね。しかしやっぱり有り難いですよね、それから金光様からお書き下げ頂くようになった、ね。毎月、月参りをする。金光様が必ずもうそれこそ、にく、(ふとふと?)と、御神米、私はその家に一遍行ってからも沢山溜まっとる御神米を見せて頂いた。
 ところがその当時はですね、もう先生、私が月参りをさして頂くとですね、金光様が機嫌の悪い顔をしておられるだけじゃなくて、悲しいごたる顔をなさるっちゅう。そしてですね、御神米がもうこれから以上は細か書かれまいちゅうごとある小さい字でですね、御神米とお書き下げを、御神米何々、もうそれが気持ちが悪うしてこたえんちゅうた、ね。
 いわゆる、まあ当時の一万円ちゃあ飛行機が一台くるのですからね、大した金じゃったんでしょうけれども、その言わば一万円という金を使うことのできない、神様の喜びにならないことに使うたということなんです。してみると、はあ一万円お供えしたっちゅうてから喜べないことになるわけですね、ね。
 ですからその行じ方なんだ、その使われ方というものがです、間違いなしに神様が喜んで頂くようなことに使われておると、やはり感じなければできるこっちゃないよね。そこで皆さんが、ならここでです、ここで(行じ?)されておることがです、例えば財なら財のことだけじゃないですけれども、財なら財の面におきましてもです、ね。

 最近はこの、この頃の教師会の時にもこの財の取り扱いについてということが非常に検討された。もうそのことだけで一日、若先生がここから参りましたが、まあ財の取り扱いということについてですね、もう自分が取り扱いよるけんで、私はつまらんと、ね。もうこっちは扱っとるだけ、自分が扱っとる時は自分が何に使おうかに使おうと思いよるもんじゃけん、間違う、ね。自分はただ、ここでお取次をさして頂くだけ。そして、神様がお使いになるところへ、それこそ自分がそこに私心を挟まず、不浄を入れずに使わして頂くということになりゃ、財というものは生き生きとして生きてくる。
 生きてくるだけじゃない、ね。それこそ誰かが言ったように、生きた使い方をするから生きてからまあ、子供やら孫やら連れてくる、ね。それをね、もうけちなけちな、もう本当に馬鹿じゃなかろうかっちゅうほどけちな使い方をする人がある。そして自分達が贅沢することにはがばーって使う。この辺はもう今日の御理解頂きよったらもう、どうこう仕様なかですよね、おかげの頂けるはずがない。
 だいたい、お国の立ち行きなんか考とらん。教会の運営なんか考えとらん。それではどこの次郎やら四郎やら分からん。さあもう10年もう参りよると言うても、ね、あの人はどこの人じゃろうか、誰ん知らん、ぐらいなことじゃいけんでしょう。今日は田主丸教会で信徒会があります。築水連合会、ね、会長さんの平田さんがいつもみえる。もう平田さんのみえる、その平田さんの話を聞くのが皆の楽しみで皆が行くわけですけれども、ね。
 そこでんなら、皆さんがここで分からなければならないことです。どういう生き方をした人がそういう大きな財に恵まれておるかということなんだ、ね。私の若先生が教会回りをしたことがある。そしてから、どげなふうじゃったかと聞いたところが、おかげ頂いてきた。どういうことかをおかげ頂いてきたか。あの教会がおかげ頂かん、おかげ頂くはず、あげなこっちゃおかげ頂くはずはなかというとこば見てきたっち。
 あんたおかげ頂いてきたばいって私言うたことがありますがね。なるほどあそこはもう何十年の教会であるのに信者が育たん。いつも言うなら困ってござる。まあ例えて言うなら、教会にも税金がありますよ、ね。教会の教務に使われるために。それをもう、1から10までやると、もうできるだけ少しばかり納めるっち、余計な(?)ならやかましい、文句言うていくとがおる。
 もう私は一番最高んとば納めたいと思うけれども、まあそれだけ認められてないわけなんでしょうけれどもですね。本当にそれで道の御用に立つ者ならですね、本当に十分におかげ頂きたい、ね。なるほどあの教会がおかげ頂かんはずだと。なるほどあの信者が本当のおかげになっていかないはずだと、ね。
 おかげ、あの人がおかげ頂きよらっしゃらんはずが、あそこにある。それを私は見てくることも、それを聞いてくることもですね、それを私は分からしてもらうことは、おかげだと思うですね。おかげ頂きよる人の姿を見て、ははあ、あの人のあそこが人とは違う。あそこがおかげ頂きなさるもとじゃろうと。というようなものを見てくることも尚、大事だろうけれどもです。おかげ頂ききらんもとをそれで自分達の上にはあげなことがあっちゃあならん、ね。ということになってこなきゃいけんのです、ね。
 そして、どこどこ教会の何々さんげなと言われるような、言わば人達はです、皆、ね、それこそ、おかげを頂いておりますね。ここに二つのタイプがあるですね。家業の行ということが言われますね、お道では。この方の行は家業の行じゃからと言うて家業に一生懸命忠実になる人があります、ね。私は確かにそうです。百姓する人がその自分の頂いとるその百姓に本当に忠実であるということは、それがそのまま修行なんです。けれどももう一つここに考えさして頂くことはですね、その家業の行をもっと素晴らしい家業の行としての行に対する愛情をもっておるということだと。
 自分が一人で頑張ったところで日に一反なら一反の、何か例えばするならば、ことしかできなくても、これが10人揃うてごらんなさい。一丁のことができましょうが、ね。私がいつも申しますように、洗い物屋さんじゃつまらんばい。たくあんからたわしいっちょがとってやらにゃん、したらはいだっちゃ自分が電話かかって、自分が配達せにゃならん。それでいくら家業の行でばたばたしたっちゃつまらんと私は、ね。
 同じその万屋さんでもですね、デパートでなからにゃいかん、ね。自分なちゃんとこう、社長席にどん座っときゃええ。どこどこの、え、係、化粧品部、(せんぎょ?)部、呉服部、ボタンいっちょでそれが自分の末梢神経のように動いておるというようなおかげを頂かにゃいけん、ね。私は本当に自分の行というものをですね、愛するならばそれが大きく育っていくことを願うことが私はおかげだと思うですね。
 例えばならここに秋永先生と高橋さんが座っとりますが、なら高橋さんやら秋永先生の場合なんかどうだった、まあ人は笑うかもしれません。はああれだけの商売しよってからもうずっと椛目に浸ってござる。ところが最近、なら今日は高橋さんとこの職人さん方が3人参ってきておりますが、職人さん方が言うのに、大将がおらん方がかえって商いがあるっち、大将、ちっとその不信になってくると、大将あなた合楽に行って下さい。
 しかもその大将の信心をです、職人さん達が皆、頂くようになり、合楽の信心が有り難くなってきた。自分の大将の周囲は、言わば合楽の信心でだんだん固まってきた。これは秋永先生に言うてもしかりである。そればってん、とてもあげなことで自分の仕事をほうからがしたことしてから、そして、金光様金光様とこう言うておる、ね。これは私は大きなデパートの社長さんにならして頂けれる、言わば稽古がさっさとできよる時だと私は思うです。
 さあ自分がもう、ね、電話も自分がかかりなさらん、帳面も自分が付けんならん。配達も自分がせんならん。なるほど、一生懸命にお使い回しを頂いておる。一生懸命にお使い回しを頂いておるから、それを修行として頂くということも有り難い。そうでしょう、ね。それが家業の行なんだ。
 けれどももういっちょ大きな意味合いにおいての言う、家業の行というのはです、その家業の行そのものを愛することなんだ、ね。そして、10人のためよりも100人のために、その自分のなされておるところの行がです、ね。奉仕に使われるということなんだ、ね。まあここまで聞いてです、ならどこの教会の小さい教会じゃつまらん。大きな教会のあれは、誰々さんげなという人達ば一遍ずらーっと見てごらんなさい、ね。
 この頃からみえた、あの津田博士の場合でも、平田さんの場合でも、ね。大きな教会の総代だ信徒会長だというような人達の姿見てごらん。自分の家業の行というものを一生懸命守った人か。自分の家業はもう投げ打っておるようにして神様の御用に一生懸命立った人、ね。そういう人達がです、10人前よりも100人前も千人前もの御用ができるようにおかげを受けておるという事実があるということをですね、見る時に、いわゆる家業の行と仰る家業の行は、なるほどそのことも家業の行なんだけれど、もっと素晴らしい家業の行にお互い開眼しなければいけないということなんです、ね。
 そうして、私がそのお広前ならお広前、教団なら教団の上にです、自分の受け持っておる場というものが、だんだん広うなっていくことをひとつ、有り難しとしなければならない、ね。そこで、思われること、ね。御用というものは、例えば、ね、初めの間は一の御用ができていたけれども、2年後には2、10年後には10の御用ができるような願いをもたなければならないかということが分かる、ね。
 だから、お供えは決めるな、細めるなと私は頂いたことがある。もうお供えって100円に決めとる人がある。馬鹿んごとある話、ね。おかげ受けたならばそれが、百万であろうが、ね、一千万円であろうがです、ね。おかげの受けられるようなおかげを頂かにゃいけん、ね。それが自分のそこの力になることなのだ。今日の御理解はもう、話しよりますとね、もうこれは私自身がおかげを受けてきた。受けてきたことでありながら、この御理解は実は初めてだということですよね。
 私も初めて、けれどもこういうふうな、こういうようなこの御理解の説き方というか、見方というのは、初めてですけれども、これはお国のことも、利益のことだけのような御教えのように頂いとった。ところがそうじゃない。これは私共が大きくおかげを頂いていくために税金どん小切るようなこっじゃ、ようなこっじゃつまらん。お供えどん小切るようなこっちゃつまらん、ね。
 十分に私はその御用ができるようなおかげを願わしてもらわにゃいかん、ね。神様が定められたところの予算というものがあるならば、その予算の中に、ね、久富がおる、堤がおる、高橋がおる、ね。その高橋がどれだけ受け持つか、堤がどれだけ受け持っておるかと、それが楽々とできる。そして、隙あらばそれをもう少し大きくしていこうという。ここのお供えがそうである。隙あらばあのお三方を自分のものにしたい。あのお三方、私がおかげ頂きたいと願うておるようにです、ね。
 そういう私は意欲というかね、願いもそういう意欲的でなからなければいけない。同時に私は今日は家業の行ということの、まあ新解釈ですよね、ね。自分の仕事を忠実に着々としてです、堅実にそれを守っていくと、これも素晴らしい家業の行なんだ。けどもそれよりもっと素晴らしい家業の行を、私は実例をもってですね、例えばどこどこ教会の何々さんと言われるような人達の、んならおかげを受けてこられた実際の姿を見るとです、本当に家業の行というものは、もう放任されたかのように見えておる。
 けれども、家業の行というものをいよいよ愛する上にはです、自分一人で成すじゃない、それが10人も100人ものをもって、なされてくる。そればってん、自分が一遍見回りをしなければね、どげなごまかされるか分からんちゅう。それが素人の考えです。それはなるほどそうでしょう。信心ぬきにしてただ税、ね。給料だけで雇うとる人間ならばそうかもしれません。けれどもね、神様がその人の信心によって集めて下さる人材、例えて言うならば、ね。高橋さんとこにおる、職人さん達がです、もちろん信心のしの字もなかった人達がです、大将の信心を見習うて信心をするようになる。
 その信心を頂いておる者が要所要所にその部門について、そこの責任を持って、仕事を果たしていってくれる。大将のんとはどうぞ合楽に行っといて下さい。ちょうど社長さんが、ね、大きな椅子の前に座ってから、ボタンいっちょ押しゃあ、全てのところへ末梢神経が行き届くような、おかげの頂けるような、道理なんです、ね。
 だからそういう一つね、おかげをひとつ、頂かにゃいけません。ためにはまず、やはり何と言うても、自分の頂いとるその仕事そのものを神様の御用として本当に忠実におかげを頂く修行から始めて、ね。そして、だんだん事あらば、ね、そういう時期がきたならば、ね。その自分の守ってきたその仕事でもぽんとそれこそ、投げ打ってからでも神様の御用に立てれるだけのです、信心の度胸というものを作っておかにゃいかん、ね。
 そして、後は店員任せ、言うなら家内任せででもです、かえって結構、それがおかげ頂いていけれるようなおかげ、そこには集まってくるのは、その人の徳に集まる物であり、金であり、財である、人材である、ね。そこに私はゆるがぬ、本当のお徳での運営ができれれる営業、営業という、ね、御用ができるようになるとこう思うのです、ね。
 どうぞひとつ、合楽教会もこれから本当の意味合いにおいて、日本一を目指さして頂いとる。私はどうでもこうでも日本一になりたいとこう思うておる、ね。ですから、日本一の教会の総代さん。はあ、合楽教会のあの人が○○さんだと言われるくらいなおかげを頂かにゃならんためにはですね、私は家業の行というものをもっともっと大きな意味合いからです、ね、愛する気持ちというものを作っていかなければいけんと思うね。どうぞ。


明渡真